人はなぜ“動かない”のか──損失回避バイアスの正体
独立や起業を考えると、多くの人は「失敗したときの痛み」を必要以上に恐れて足が止まります。行動経済学のプロスペクト理論によると、人は同じ金額であっても「利益」より「損失」のほうを強く感じやすいことがわかっています。
実際、カーネマンらの実験では、利益を得る場面では「確実に得られるほう」を選ぶ人が多い一方、損失の場面では「損失を避けるためにリスクをとる」傾向が強く見られました。つまり「失敗=損失」は「成功=利益」よりも重い意味を持ち、この感覚が意思決定を歪めてしまうのです。
さらに、家族や住宅ローンといった責任を抱える人ほど、その恐れは増します。たとえば、毎月の給与を失う苦痛と、将来得られるかもしれない追加収入を比べたとき、多くの人は給与減少の不安のほうを強烈に感じます。このように、行動経済学では同額の損失は利得の約2倍の重みを持つとされており、これこそが独立に踏み出すのをためらわせる大きな要因になっています。

「失敗>成功」の重みづけが意思決定を歪める
損失回避バイアスが働くと、目に映るのは「失敗の可能性」ばかりです。その一方で、成功する確率や得られる利益は小さく見積もられてしまいます。
たとえば、30代後半で家族を持つエンジニアが独立を考えるケースを想像してみましょう。失業や収入減の不安が現実味を帯びるほど、その恐怖は膨らみます。結果として、計画倒れになった場合の損害が、成功したときの利益よりもはるかに大きく感じられてしまうのです。
プロスペクト理論によれば、人は「利益が目の前にあるときにはリスクを避ける」一方で、「損失を前にするとその損失を避けようとしてリスクをとる」傾向を示します1。そのため、「確実に100万円得られるプラン」と「50%の確率で200万円得られるが失敗の可能性もあるプラン」を比べると、多くの人が前者を選びがちです。
さらに、損失回避係数という考え方では、同じ金額でも損失の心理的重みは利益の約2倍になると説明されています。つまり「成功の喜び」よりも「失敗の苦痛」が強く響き、このバイアスが行動の足かせになってしまうのです。
こうした偏りは必ずしも合理的とは言えません。本来、独立は「将来への投資」と位置づけられるはずです。しかし、損失回避が強く作用すると「安定収入を失うリスク」ばかりが前面に出て、不安が増幅します。そこで次章では、こうした恐怖や不安を数値に置き換えて見える化する方法として、Gary Kleinの提唱した「プレモルタム」を紹介します。
怖さを数値に変える:プレモルタムの手順
損失回避バイアスを和らげるには、漠然とした不安を数値に変えて整理することが有効です。Gary Kleinが提唱したプレモルタム(Premortem)は、その代表的な方法です。これは「計画がすでに失敗した」と仮定し、その原因を事前に洗い出す演習を指します。こうした作業によって「失敗しそうな要因」が明らかになり、あらかじめ対策を立てられるため、結果的に成功確率を高める効果が期待できます。
最悪シナリオ列挙→確率×影響で優先度付け
最初のステップは、独立後に起こり得る“最悪シナリオ”をリスト化することです。たとえば次のようなものがあります。
- 案件ゼロ化(契約が途切れ、収入が完全に途絶える)
- 収入遅延・未払い(顧客の支払いが遅れる、または不払いになる)
- 病気・ケガ(長期の療養が必要になり、仕事ができなくなる)
次に、それぞれの発生確率(例:20%、30%、10%)と、発生した場合の影響度(例:月収×影響月数)を見積もります。その上で、リスク=確率×影響の計算を行い、大きい順に優先順位を付けます。
簡単な試算例を示すと:
- 案件ゼロ化:発生確率20%、影響額=30万円×3カ月=90万円 → 期待損失18万円
- 収入遅延 :発生確率30%、影響額=30万円×1カ月=30万円 → 期待損失9万円
- 病気・ケガ:発生確率10%、影響額=30万円×6カ月=180万円 → 期待損失18万円
この場合、「案件ゼロ化」と「病気・ケガ」がともに期待損失18万円となり、優先的に備えるべきシナリオと判断できます。なお、この作業は表形式でまとめると整理しやすく、Excelや紙のワークシートに落とし込むと実用的です。
代替策・保険策・撤退ラインの設計
優先度の高いリスクには、代替策や保険策をあらかじめ準備しておきましょう。たとえば案件が途切れた場合は、予備資金を確保したり、複数のクライアントを持つことでリスク分散を図ります。病気リスクに備えるなら、健康保険や所得補償保険の確認、あるいはフリーランス向けの傷病手当制度を活用するのも一案です。
また、計画が思うように進まなかった場合に備え、撤退ラインを事前に設定することも安心につながります。具体例を挙げると、
- 売上基準:月間売上が計画比50%を下回ったら見直す
- 収支基準:利益が3カ月連続で赤字なら再検討する
- 期間基準:独立後1年以内に黒字化できなければ撤退する
このように「売上」「利益」「期間」の3つの視点で数値を決めておけば、判断がぶれにくくなります。
家計耐久テスト:貯蓄÷月支出=安全月数を延ばす3施策
独立を考えるときには、家計がどれだけ持ちこたえられるかを測ることも欠かせません。その目安となるのが「安全月数」です。
安全月数の算式はとてもシンプルで、
安全月数 = 可処分貯蓄 ÷ 月の生活費
で求められます。
たとえば、可処分貯蓄が600万円あり、月の生活費が30万円であれば、600÷30=20で「20カ月分の安全月数」となります。つまり、収入がゼロになっても約1年半は生活できる計算です。なお、政府の統計によると、2人以上世帯の平均月支出はおよそ29万円と報告されています。自分の支出額をこの算式に当てはめれば、どのくらいの余裕があるかを数値で把握できます。
もし安全月数が不足していると感じた場合は、次の3つの施策で延ばす工夫ができます。
可変費3割ルール/固定費の“回復不能”見直し
第一の方法は、支出のスリム化です。
可変費(食費・交際費・娯楽費など)は調整しやすいため、「まずは3割削減」を目安にしましょう。たとえば交際費が月4万円なら、1.2万円を減らすだけで安全月数が少し延びます。
一方で、固定費(家賃・保険料・通信費など)は一度見直すと長期的に効果を発揮します。不要になった保険契約や、利用していないサブスクリプションがあれば整理のチャンスです。さらに、家賃は「手取りの3割以内」が安心とされるため、収入に合った住居に切り替えるのも有効です。
副業の橋渡し収入(ブリッジ収入)の作り方
第二の方法は、収入の柱を増やすことです。独立前から副業を通じて少額の収入を持っておくと、いざ本業が不安定になっても「橋渡し収入(ブリッジ収入)」として家計を支えてくれます。
具体例としては、
- 専門スキルを活かしてクラウドソーシングで案件を受ける
- 趣味や知識を発信し、コンテンツ化して有料サービスにする
- 空き時間にアルバイトをして定期収入を確保する
といった方法があります。たとえ月に数万円でも、安定的な収入があると精神的な安心感は大きく、独立後に本業へ集中する環境づくりにもつながります。
ケース:半年準備で独立するミニ計画(資金・案件・法務)
ここまでの内容を踏まえて、「半年後に独立を開始する」という想定でミニ計画を立ててみましょう。例として、ITエンジニアのAさん(35歳・家族あり)が独立を目指すケースを考えます。
資金計画
現在の貯蓄は300万円。このうち、生活費18カ月分(約450万円)を緊急予備として確保することを目標にします。足りない部分については、副業や節約を通じて余裕資金を積み増し、安全月数(=貯蓄÷月支出)を15カ月以上に延ばすことを目指します。
案件・収入計画
現職でつながりのある企業3社に対して、独立後も継続して業務を依頼できるよう打診します。同時に、副業で月3万円の橋渡し収入を確保。さらに、フリーランス向けのマッチングサイトにも登録し、契約候補を複数ストックしておきます。
法務・行政手続き
開業から半年以内に開業届を提出し、事業用の銀行口座や名刺を準備します。加えて、社会保険や税金の切り替え手続きを確認します(詳細は次節Q&A参照)。また、家族と資金計画や進捗を共有し、心理的なサポートも得られるよう努めます。
このように、資金・案件・法務のポイントを半年のカレンダーに落とし込み、月ごとにチェックリスト化すると、進捗管理がしやすくなります。表やアプリを使って「未達事項」を可視化しておけば、計画の実行性が高まります。
よくあるQ&A(社会保険/家族合意/案件切れの備え)
Q:会社を辞めた後の社会保険は?
会社員時代の健康保険・厚生年金からは離脱し、国民健康保険と国民年金(第1号被保険者)に切り替えが必要です。具体的には、退職日の翌日から14日以内に市区町村役場で手続きを行います1。また、最大2年間は会社の健康保険を継続できる「任意継続制度」もありますが、保険料負担が増える点には注意が必要です。
Q:家族の理解・合意はどう得る?
早めに家族へ計画を共有し、「いつまでにいくら貯め、どのくらい暮らせるか」を数字で示しましょう。不安の焦点(収入減、社会保障の変化など)を把握し、段階的に進めることで信頼を積み重ねられます。場合によってはファイナンシャルプランナーへ相談し、家庭のライフプランを見直すのも有効です。
Q:予定していた案件が切れたら?
リスク対策として、複数案件を並行すること、自分の営業チャネルを持つことが重要です。独立前から複数クライアント候補と関係を築き、フリーランスネットワークに参加するのも効果的です。また、短期的に案件が切れた場合に備えて、副業やアルバイトで最低限の収入を確保するプランを用意しておくと安心です。
まとめ&次の一歩(チェックリスト3つ+計算シート)
ここまで、損失回避バイアスを乗り越えるための数値化手法を解説しました。最後に、行動に移すためのチェックリストを示します。
- リスクの可視化:プレモルタムシートに最悪シナリオを書き出し、確率と影響を数値化。期待損失を算出して順位づけする。
- 家計耐久度確認:可処分貯蓄と月支出をもとに安全月数を計算。不足していれば支出削減や貯蓄増加を検討する。
- 撤退ライン&代替策決定:売上・利益・期間ごとに撤退基準を設定し、保険・副収入・複数顧客などの対応策を準備する。
このチェックリストをもとに、自分用の計算シートを作成してください。なお、本記事は一般的な情報をまとめたものです。最終的な判断は自己責任で行い、必要に応じて専門家の助言も取り入れるようにしましょう。
セルフチェックと数値化を繰り返すことで、損失回避の不安はぐっと軽くなります。
プレモルタム記入シートの項目一覧(列名)
- シナリオ(リスク要因)
- 発生確率(%)
- 影響度(月額または総額)
- 期待損失(確率×影響度)
- 優先度(高・中・低)
- 対策(代替策・保険など)
- 撤退ライン(売上・利益・期間の基準)
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